コンサルタント弁護士・籔本恭明(やぶもとやすあき)
コンサルタント弁護士・籔本恭明の「経営の視点」
このページには、籔本恭明の視点によるコラムを順次掲載します。
自助、互助、共助、公助、これだけでよいのか。
自助、互助、共助、公助、これだけでよいのか。
作成:2017年6月17日(土)
コンビニ、外食、製造業、いずれも人手不足が頭痛の種だ。
スーパーのセルフ・レジは日常のものになっているし、コンビニのセルフ・レジも本格的に導入されるだろう。
人口減少の時代のまっただ中にある我が国で、人手のかからないオペレーションはますます必要とされる。
行政においても、人手のかからないオペレーションがますます必要になる。
もちろん、行政のIT化も不可欠である。
さらに加えて、自警団、消防団を、もう一度「日常のもの」にすることが必要なのではないか。
市町村レベルの地方自治においても、議員は無報酬を原則として、別に本業を持ち、勤務後に議会で審議を尽くすことが普通になってもいいと思う。
自警団、消防団、地方議員の無報酬化は、自助、互助、共助、公助のうち、「互助」に当たると思うがあまり議論されていない。
おそらく、「自助、互助、共助、公助」はそれぞれ「困っている人を助ける」という観点から整理されていて、「公共のための責任」という視点が欠落しているからではないか。
公共である社会が持続可能であるためには、将来の構成員に対する責任がなくてはならない。
今生きている人間を尊重するという視点からだけでは、未だ生まれていない未来の子孫に対する責任という観点は生まれない。
今生きている人を助けるだけでなく、未来の子孫のために何ができるかを考える必要がある。
その精神を涵養するためにも、自警団・消防団の再構築、地方議員の無報酬化はもっと議論されてもいいはずだ。

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業界団体の新しい役割
業界団体の新しい役割
作成:2017年6月17日(土)
規制緩和が進むと、業界団体の役割が終わる。
確かに、これは一般論として成り立つように思える。
先日、大前研一氏の勉強会で日本交通のUber対策の話を聞いた。
Uberは、クラウドを利用した「配車アプリ」で利便性を向上し世界のライドシェア業界を席巻している。
かつては、我が国のタクシー業界もUberに飲み込まれるのではないかと恐れられた。
これに対し、日本交通の川鍋氏は、子会社のJapanTaxiの社長に就任し「全国タクシーアプリ」を開発し、日本交通以外のタクシー会社も巻き込んでUberによる業界衰退を防衛できた。
この事例から分かるように、規制緩和が進むと、巨大IT企業によるデジタル破壊が進むことがある。
そして、これに対抗して、顧客にさらなる付加価値を提供する枠組みを作る役割が業界団体に課せられることになる。
我が国の小売業が不振に陥っているのは、巨大Eコマースによる流通破壊の側面が大きい。
日本交通は、企業が煽動をとった事例ではあるが、規制緩和が進み、黒船の来航を受け入れたときにこそ業界団体の役割が大きいのではないか。

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民主主義を考える
民主主義を考える
作成:2017年6月13日(火)
「アリストテレスにおいて、デモクラティアとは、貧乏人がその他のものを犠牲にして自分たちだけの利益を収めるような政治形態を言うわけである。」(福田歓一「政治学史」45頁)
人権という概念にしても、人が生まれながらにして有する権利と定義づけたところで、現在でも、シリア人女性がお金で取引されている事例が後を絶たないが、そこでは人権が確保されていない。
そもそも人権概念は、国家の横暴を防ごうとする目的の機能的概念であって、「人が生まれながらにして有する権利」であると合意を取り付けることで、どうにか役に立つに過ぎない。
そのように扱われていない国や地域では、全く用をなさない。
現実に我が国で、人権を擁護する人々の多くは、世界中で人権、すなわち、人が生まれながらにして有する権利が侵害されていても、その人たちを守るために立ち上がることなどせず、我が国の政府を攻撃することに最も精力を注いでいる人が少なくない。
これを非難しているのではない。
そもそも、人権というものは、政府批判のための道具であったという素性があったからではないか。
かつて、政治哲学は、神という根拠に根差していた。
神という根拠を否定してしまうと、人間が主役になる。
人間尊重というわけである。
しかし、この人間中心主義というものが大変いかがわしいものではないかと思うことがある。
人間というものは欲があり、この欲がある以上、人間中心主義は、欲と欲のぶつかり合いになるものだ。
ホッブズのリバイアサンを例に出すまでもなく、人間というものは、結構、利己的なふるまいをする。
このような利己的な人間を中心にしたとき、秩序というものをどうするのか。
政治を考える際に、根拠が必要である。
この根拠となるのは、やはり神であって、人間ではないように思う。
人間中心主義での民主主義とは、随分、血なまぐさいものであることを覚悟しなければならないと思う。

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医師の長時間労働
医師の長時間労働
作成:2017年6月2日(金)
残業時間の上限規制から、医師は対象外となる。
これは、医師法19条に「応召の義務」あるからだとされている。
医師は、正当な理由がなければ受診の申し出に対して断れないから、残業時間の上限規制になじまないというのだ。
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AI 世界制覇の攻防 日経ビジネス2017.05.22
AI 世界制覇の攻防 日経ビジネス2017.05.22
作成:2017年6月2日(金)
今や、AI(人工知能)の文字が新聞に現れない日はない。
日経ビジネス2017.05.22には、「最初にAIが普及したのは金融業界。株価や為替などの情報が数値データとして存在し、AIが理解しやすかったからだ。次の焦点は弁護士や医師などの専門職。判例や薬品の効能に関しては詳細な文書データが存在し、AIが判断しやすい。」と、弁護士・医師には恐怖を与えるような文章が並ぶ。
判例を調べ、同じような過去の判例を加工すれば、弁護士の仕事ができると考えられているから、このような記事になるのだろうが、確かにAIを使えば、弁護士業務も効率化できるだろう。
今でも電話会議等は相当活用が進み、逐一法廷に出ずに済むことは少なくない。
しかし、弁護士業務の効率化のためには、まずは、生体認証等を活用し、法廷に出なくても、事務所に居ながら、法廷に出たと同じような仕事ができるようにすることだろう。
次に、契約書の認証システムも進めるべきだろう。
さらに重要なことは、裁判所が単なる過去の判例を踏襲するだけではなく、社会ニーズを読み解いて、法創造機能を発揮して頂けるように促すような業務ができる法曹を育成することかもしれない。

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山口二郎先生の「問われる安倍政権の現実感覚」
山口二郎先生の「問われる安倍政権の現実感覚」
作成:2017年6月2日(金)
週刊東洋経済2017.5.20号に、山口二郎先生の「問われる安倍政権の現実感覚」が投稿されている。
山口先生は、「北朝鮮の核とミサイルの開発を非難することは、誰しも異論はない。しかし、相手が粗暴な独裁国家だといっても、攻撃で日本が壊滅しては取り返しがつかない。多少の攻撃を受けても敵国をたたき潰す力を持つ米国と、通常兵器の攻撃で壊滅する日本は、立場がまったく異なる。」と論じている。
山口先生が現実的である点は、我が国が北朝鮮から攻撃されても、米国は日米安保条約に基づいて北朝鮮を攻撃しないことを前提としている点だ。
山口先生の論考を進めれば、我が国が敵国を叩き潰す力を獲得するべき、つまり、我が国も核武装するべきということになる。
しかし、現実的に、米国が我が国の核武装を許容するとは思えない。
そこで、NATOで実施されているように、我が国と米国とが核をシェアすることが選択肢に上がってくる。
山口先生は、「攻撃させないことこそ日本の安全確保の唯一の道である。」と断言している。
そう考えると、我が国と米国がニュークリア・シェアリングすることが唯一の現実的な選択肢になるのではないか。
もし安倍政権の現実感覚に疑問を持っているとするなら、安倍政権においてニュークリア・シェアリングについて未だ議論すら始まっていないことに対する苛立ちが背景にあるのではなかろうか。

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教育無償化
教育無償化
作成:2017年5月25日(木)
教育無償化については、大学までの教育を無償化する考え方、幼児教育を無償化する考え方等、同じ「教育無償化」でも統一したものはない。
教育無償化の財源については、
第一に、税金で賄う。
第二に、教育国債で賄う。
第三に、こども保険で賄う。
以上の三案が主なものである。
第二の教育国債は、毎年かかる教育財源を順次次世代の負担に先送りし続けることになるので、問題外であろう。
第三のこども保険は、企業の競争力を阻害し、同時に労働者に負担を強いるものなので、経済界の賛同は得られないのではないか。
そうすると、税金を財源とすることになりそうである。
しかし、本来は、教育に関して家族が第一義的に責任を負うべきものではないか。
そもそも、教育無償化の論議は、少子化対策として沸き起こったものである。
そうであるなら、まずは、「子供を産み、育てることは大切なことなのだ」と価値観を示すことから出発するべきではないか。
経済的な援助をすれば子供を産むだろうと考えるのは短絡的に思える。
少子化の原因が、第一に、女性の晩婚化、第二に、核家族化、第三に、子供を育てるより自由を重んじる価値観、第四に、子育ての経済的負担等が考えられる。
そうだとするなら、子供を育てる大家族主義を国是として、複数世代で同居する家庭に固定資産税を軽減するなど経済的なインセンティブをつけることが、第一歩とするべきではないか。
大家族主義を国是に掲げることに抵抗を示す人がいる。国家が家族に関する価値観に介入するべきではないというのである。
しかし、少子化自体をネガティブなものとすることは、まさしく、国家が家族に関する価値観に介入することなのである。
国民国家は、その持続を求める。
持続を可能にするためには、その構成員である国民が、順次生まれてくることを望むことは当然である。
少子化対策を議論する際に、家族というものに対する価値観を国家が肯定的に示し、これに対して税金等でインセンティブをつけることは、とても合理的なことなのである。

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日経ビジネス2017.05.15号 第4次「食」革命
日経ビジネス2017.05.15号 第4次「食」革命
作成:2017年5月24日(水)
日経ビジネス2017年5月15日号は、「第4次食革命」を特集している。
そもそも、革命とは「天命革まる」とする易姓革命からきている言葉で、大変血なまぐさい言葉であり、雑誌の表紙に使うべきものではない。
この「革命」という用語を乱用するのは、世の中が騒がしくなる要因となる。
このことを注意して、記事の内容を振り返ってみる。
記事では、食の世界が変わる理由として次の6つを掲げている。
1)2050年には世界人口が90億人になることが見込まれるが、この人口のタンパク質の需要に対して家畜からのタンパク質では賄えない。
2)畜産に必要な水と穀物の量を比較すると、穀物を育てる場合と比べて、牛は10倍の資源を使う。つまり、動物性タンパク質は環境負荷が大きい。
3)2000年以降に成人した所謂ミレニアル世代は、健康や環境への意識が高い。
4)2014年以降、原油価格が下落しており、その分のマネーが食に流れ込む。
5)食品と含む消費財分野で大企業のイノベーションは停滞気味で、シェアは新興企業に奪われている。
6)遺伝子組み換え技術や情報技術の革新が食物分野にも波及してきている。
これらを眺めると、我が国の課題が見えてくる。
第一に、水資源の確保である。
イザヤ・ペンダサンではないが、我が国では「水と安全はタダ」という信仰がある。
しかし、水の供給源である山林の所有権が、裏で外国人にわたっていると報道されて久しい。
もう一度、外国人による土地所有に対する法制度を検討することが必要ではなかろうか。
第二に、我が国の若年層は、健康に対する意識は低い。
平成25年度の厚労省の調査によると、朝食の欠食率は、男性が14.4%、女性が9.8%となり男女ともに20歳代が最も多かった。運動習慣については男女ともに30歳代が一番低くかった。
女性においては、やせている成人女性の割合が12.3%と過去最高となっているが、30代や40代でもやせている人が増えてきている。
むしろ、社会に役に立つ必要性を教育しなければ、健康でいることのモチベーションは上がらない。
第三に、遺伝子組み換え食品に対するアレルギーが強い。
世界人口90億人の時代にむけて、遺伝子組み換え食品なしにやっていけるのか、真剣に考える必要がある。
このような課題を明確にしたうえで、新しい解決策の萌芽が見えてきているようにも思える。
ウェアラブル端末で、健康管理をする習慣は、一部の層(若年層に限らない)で確立してきている。
食については、何を食べるか、だけではなく、どのように食べるか、いつ食べるか、何を食べないのか、が重要になってくる。
食は、習慣の問題であるので、これらをウェアラブル端末だけで管理するには、現状では限界があると思われる。
むしろ、「家族」の機能を十分に確立することが重要であると思われる。
子供に対する教育だけでなく、親に対する教育、「親学」が必要とされなければならない。
食の問題を扱うのに、家族の機能に触れないのは、いかにも日経ビジネスの姿勢かもしれない。
しかし、家族の機能を強化するとともに、親学を普及させることが、健康寿命を延ばし、国家としての生産性を高めることにつながると思う。

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憲法は権力の濫用を防ぐためだけのものか
憲法は権力の濫用を防ぐためだけのものか
作成:2017年5月7日(日)|更新:2017年5月7日(日)
トマス・ホッブズは、近代国家をリバイアサンと呼びました。
リバイアサンとは、旧約聖書のヨブ記に出てくる怪物のことです。
ホッブズは、著書『リヴァイアサン』において、人間が自然権を思い思いに行使する状態を「万人の万人による闘争」であるとし、その混乱を避けるためには自然権を国家(=リヴァイアサン)に委譲する必要があるとして絶対王政を擁護しました。
記事全文を見る

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諸橋茂一著「日本が世界の植民地を開放した」(高木書房)
諸橋茂一著「日本が世界の植民地を開放した」(高木書房)
作成:2017年1月25日(水)|更新:2017年2月13日(月)
昨今、中国政府がアパグループCEO元谷氏が「南京大虐殺は虚構である」という趣旨の文章を書いた本を、元谷氏らが経営するホテルに置いていることに関して批判している。
本来、外国政府から我が国の国民の言論活動に対する妨害があれば、これに抗議することが政府の責務であると考える。
蓋し、国家は国民の幸福追求権を確保する責務があるからである。
また、外国政府から我が国の国民の言論活動に妨害があったのであれば、我が国のメディアは総力を挙げて、外国政府に抗議するべきであるが、現時点ではそのような様子は見られない。
これを見ても、我が国のメディアは、国民の人権を確保する意欲に欠ける。我が国のメディアには、言論の自由を語る資格はないと言ってよい。
さて、今回、問題になった南京大虐殺についてであるが、諸橋茂一氏がその著書「日本が世界の植民地を開放した」の中に、南京大虐殺に関する記述がある。
同著61頁から80頁にかけて、南京大虐殺が虚偽である証拠が64個列挙されている。
今回のアパグループ代表に対する言論弾圧事件を契機に、南京大虐殺が虚構なのか否か、我が国で広く議論が展開されることを期待して、極一部だけ引用する。
(「南京大虐殺」が「真っ赤な嘘である」証拠の数々)
1.まず、「『南京大虐殺なること』に関する『犠牲者名簿なるもの』は唯の一人分も無い。」
(上海大学歴史学部・朱学勤教授による。平成19年12月20日付け産経新聞)。この1点だけで捉えても「南京大虐殺なること」が如何に荒唐無稽な作り話であるかは既に立証された様なものである。(仮に、「南京大虐殺」なることが真実であるならば、「30万人」という数字の何割かの「犠牲者名簿」が存在しないはずがない。)
2.「南京大虐殺」の犠牲者は、「30万人」ということになっているが、日本軍が南京を制圧した昭和12年12月13日当時、南京市内には、約20万人の民間人しかいなかったという記録があり、併せて、約1か月後、昭和13年1月14日の時点では、人口が約5万人以上増えて、約25万人~30万人になっていたという「南京安全区国際委員会記録」が残っている(田中正明著「南京事件の総括」29頁)。
3.日本軍が南京を占領する約1か月前、昭和12年11月より翌年の9月迄、蒋介石率いる国民党は、ほぼ毎日の様に、欧米のマスコミ関係者を集めて、記者会見を開き、日本軍に対するイメージダウンの目的で、日本軍の不法行為等について嘘八百の発表、宣伝工作を続けていた。そして、その回数は延べ300回に及んだという。処が、当時、国民党は「南京大虐殺」などということを一度も言ったことが無かったという。何故か?それは、その様な事は全く起きていなかったから言わなかっただけである。仮に、当時、南京で「大虐殺」が起きていたならば、其の事を其の記者会見の場で取り上げないはずがなかったであろう。
4.昭和13年当時、中華民国の顧維均代表が国連(国際連盟)で、「南京で日本軍が約2万人の民間人を虐殺し、数千の(婦女)暴行があった。」と演説した(日本非難決議を出そうとした)処、(何を馬鹿な事をいっているのだと)誰も相手にしなかった(「南京事件の総括」91頁~93頁)。
5.日本軍が占領した南京には、日本のマスコミ関係者だけで約120人、欧米も入れると約200人ものマスコミ関係者が入って取材活動を続けていた。処が、当時、国民党と繋がっていた極一部の、後述する者二名を除き、南京で大虐殺が有ったという報道をしたものは誰もいなかった。もしも当時、南京で大虐殺が行われていたならば、多くの南京在住のマスコミ関係者が、其の事を大々的に報道しないはずがなかったであろう。日本側関係者の中には、マスコミ関係者以外に、大宅壮一や西条八十、草野心平、杉山平助、木村毅、石川達三、林芙美子等々、多くの日本人ジャーナリストや作家が陥落直後の南京を訪れて見聞記を書いていた。しかし、それらの人々の(中の)誰一人として、「南京大虐殺見聞記」を書いたとか、或いは、「大虐殺に関する証言」をしたという事実はない。
 万が一に、「大虐殺」なる事が有ったならば、それらの人達の中で、唯の一人もそのことに触れていないなどということはあり得ない(渡部昇一著「かくて昭和史は蘇る」287頁)(田中正明著「南京事件の総括」123頁)
6.当時の南京にはロイター、AP、UPIといった、世界の大通信社や新聞社の特派員達が多数駐在していた。「仮に南京大虐殺なる事が有ったならば、何故、当時の国際社会の中で(大きな)問題とならなかったのか」(「かくて昭和史は蘇る」288頁)
7.南京陥落後二か月間の事件を完璧に記載しているという、南京大学教授・スマイス著「南京安全地帯の記録」の中の「市民重大災害記録」によると、問題の最初の三日間の記録として、「13日は、婦女暴行と掠奪が3件、14日は殺人1件、婦女暴行4件、掠奪3件、15日は殺人4件、婦女暴行5件、掠奪5件である。」とある。しかし、誰が目撃したか明記されていない。南京陥落から三日間、市民殺害の明確な目撃は1件も無かったことになる(「新・地球日本史「南京大虐殺は存在せず」」)。
8.昭和13(1938)年7月、表向き「マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員」であったハロルド・ディンパーリ―が、「戦争とは何か―中国における日本軍の恐怖」をロンドンとニューヨークで出版した。その中の最初の4章は、南京の外国人が友人達に出したという「匿名」の手紙で構成され、「二日もすると、度重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行…」「完全な無政府状態が支配しており、さながらこの世の地獄だ」「4万人地殻の非武装の人間が…殺された」と書いた。処が、前項のスマイス並びにティンパーリ―共に、中国国民党中央宣伝部に雇われていた人間(ティンパーリーは同宣伝部顧問)であったことが明らかとなっている。しかも、スマイスとティンパーリーが書いている内容には非常に大きな乖離がある。双方共に全く信憑性は無い。しかも、ティンパーリーは当時、南京には居らず、上海に居たのである(「南京事件の総括」97頁)。
これらの証拠が縷々64個も出店を明確にして整理されている。
(半藤一利氏「昭和史」と偕行社「南京戦史」)
一方で、南京で虐殺があったことを肯定するような言論もある。
例えば、大ベストセラーになった半藤一利氏「昭和史1926-1945」(平凡社)198頁には、「そのなかで平成元年(1989)に旧日本陸軍の集まりである偕行社が『南京戦史』を出版し、そのなかで旧陸軍にとって不利になりかねない記録や手記も隠さず、中国側の公式記録『南京衛戍軍戦闘詳報』なども加え、ていねいに書きつらねて、次のような結論を出しました。」として、
『「通常の戦闘による中国軍将兵の戦死者(戦勝病死者を含む)約三万人」これは戦闘行為によるものゆえ問題にはなりません。
「中国軍将兵の生存者(渡江、釈放、収容、逃亡など)約三万人」これは無事に南京錠から逃げることができたわけですから、オミットできますね。そして、
「中国軍捕虜・便衣兵などへの撃滅、処断による死者約1万6千人。一般市民の死者約1万5千7百60人」
 ちなみにこの「撃滅、処断」とは、敗残兵に対する攻撃、市民にまぎれこんだ中国兵の掃討、さらには捕虜暴動の鎮圧などを指しています。これと市民の死者の数を合わせたものが、問題の数になるわけです。けれども『南京戦史』は、この人数のどれだけが戦闘行為による死が虐殺にあたるのか、というところまでは記していません。が、これらすべてがいわゆる不法な行為によって殺されたとすれば、3万人強がその数ということになりましょうか。」
とある程度の規模の虐殺があったかのような記載をしている。
しかし、一方で、半藤氏は、同著199頁で、「ただ、中国側が言うように三十万人を殺したというのは、東京裁判でもそう言われたのですが、ありえない話です。当時、南京の市民が疎開して三十万人もいなかったし、軍隊もそんなにいるはずはないのですから。」
ここで明確にしなければならないことは、半藤氏ですら、中国側がいう南京大虐殺は虚偽であることを明言していることである。
また、半藤氏は、同著199頁で、「昭和13年1月、作家の石川達三が中央公論から南京に特派されて行っています。前年12月に起きた南京事件は終わっているのですが、それでも相当数の虐殺が行われているのを彼は目撃しています。それを小説「生きてゐる兵隊』として発表すると直ちに発禁となり、執行猶予付きですが懲役刑を言い渡された。それを読んでも、南京で日本軍がかなりひどいことをやっていることがわかります。」とあたかも南京大虐殺があったかのような書きぶりをしている。
しかし、田中正明氏の「南京事件の総括」112頁には、石川達三は、「私が南京に入ったのは入場式から二週間後です。・・・大殺戮の痕跡は一ぺんも見ておりません。」とあり、半藤氏の推測は当を得ていないと言える。
また、偕行社の「南京戦史」において「中国軍捕虜・便衣兵などへの撃滅、処断による死者約1万6千人。」と認定されていること自体に疑問を感じる。
(偕行社「南京戦史」の中国兵捕虜について)
戦闘員が降伏しただけでは捕虜ではない。
戦闘員が降伏して、かつ、敵軍の司令官が捕虜として受け入れる合意ができてはじめて捕虜となるのである。
双方の合意が成立していない場合には、戦闘員を戦争で殺しても合法である。
また、合意が成立しているか明確でない場合には、戦闘員を戦争で殺すことは国際法上違法とは言えない。
そもそも南京が陥落した時点で、双方の合意が成立した捕虜がどれほどいたのか疑問である。
蓋し、蒋介石が後を任せた軍司令官・唐生智は、南京が陥落する前に逃亡していたのであって、捕虜に関する合意が成立していたはずはないのである。
唐生智は、南京陥落前に、自分だけ逃亡したのであるから、そもそもシナ軍は正式に降伏することはできなかったはずであるし、捕虜に関する合意を締結できたはずはない。
したがって、偕行社の「南京戦史」の捕虜に関する記述をにわかに信じることはできないし、これを引用した半藤氏の推論も信じることは困難である。
すなわち、軍司令官が逃亡したので、南京陥落時には捕虜はいなかったと考えることが論理的だと言える。
(偕行社「南京戦史」一般市民の死者について)
南京が陥落しそうになったとき、南京市民は南京錠ないの安全地区に集められた。
南京陥落時に、大虐殺が行われた記録は存在しない。
もし、安全地区内で大虐殺があったなら、死体を処理しなければ、到底耐えることができない臭いがしたはずである。
しかし、そのような記録はない。
このように考えると、南京市民に対する虐殺はなかったと言わざるを得ないのではないか。
いずれにしても、今回のアパホテル代表に対する言論弾圧事件を契機にして、南京事件が本当にあったのかについて議論が盛り上がることを切に望む。
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平成28年12月15日勝兵塾での講演要旨
平成28年12月15日勝兵塾での講演要旨
作成:2017年1月22日(日)
現行憲法について、少なくとも、第九条、家族の規定、義務の規定の3つの条項の改正が必要だと考えます。
第1に、憲法第9条改正する必要があります。
自分の国を守ると言ったら右翼と呼ばれる状況はとんでもないことです。
もちろん、社会的コストの問題もありますので集団的安全保障によって、自国一国で防衛するより安価に防衛することは考える必要はあります。
しかし、我が国では集団的安全保障に批判する人々もいるのです。
例えば、中国の戦国七雄の時代、強大になった秦に対抗するため楚・斉・燕・趙・魏・韓の六国は、集団的に安全保障を確保するため合従策を講じます。
これに対して、秦は、周辺の国々と個別に和平を結ぶ連衡策によって、六国の合従策を分断していき、終に、遠交近攻でそれぞれの国を滅ぼしてしまいました。
また、先の大戦では、ヒトラーは、平和主義者であった英国首相のチェンバレンがズデーデンの割譲を認めたことから「戦う気がない」と見抜き、その結果、ヒトラーの侵攻に繋がりました。まさしく、平和主義者が戦争を引き起こしたと言えるのです。
このように、和平の裏には侵略の意図があったり、口先だけの平和主義が戦争をもたらすことは歴史が証明しているのです。
第2に、憲法に家族の規定を明記する必要があります。
社会の構成要素には、国家、地方自治体、法人、家族などがあります。
これら社会を構成する要素のうち、再生産(リプロダクション)できるのは家族だけです。
家族が滅びると、その民族は滅びます。
家族の形態は、その民族によって異なります。
いわば、国家のかたちは家族のかたちによって規定されます。
憲法が国家のかたちを規定するものでありますので、憲法が理想とする家族のかたちを示すことは当然のことだと関上げます。
そこで、家族を社会の最小の構成単位であることを明確に規定する必要があると思うのです。
第3に、国民の義務の規定を明記する必要があります。
権利の裏には義務があります。権利と義務は紙の表と裏の関係にあります。憲法が国民の権利を規定する以上、国民の義務について規定するのは自然なことだと思うのです。
しかし、保守の中にも義務の規定に反対する人々がいるのです。
それは、近代の憲法観では、絶対王政から国民の自由を守るために、国家権力を縛るのが憲法の役割だと考えているので、憲法には国民の義務を規定しなくてよいと考えている人が少なくないのです。
しかし、我が国には絶対王政はなかったのです。我が国の憲法は、他国の歴史を借用してきて作られているのですが、まして、歴史の借用を押し付けられていると言えるのです。
我が国の憲法は、天皇による国民の人権侵害を防ぐために制定したものではありません。
近代の憲法観では、統治者と被統治者の対立構造で歴史を捉え、統治者は悪で被統治者は善、と考えています。
このような対立構造で捉える憲法観がある限り、本当の意味での我が国の再生は難しいのではないでしょうか。
もっと掘り下げると、東京裁判史観を含む戦後の歴史観は、世の中を対立構造で捉えているのではないかと思うのです
旧約聖書を読むと戦争の話しが沢山出てきます。旧約聖書の「ヨシュア記」などを読むと、戦いによって民族が形成されてきたと認識するでしょう。対立の結果としての殺戮の歴史といってよいでしょう。このような対立構造で考えることが子供のころから頭に染みついているのではないでしょうか。
一神教の世界の内部での対立構造の行きつく先は、ホロコーストか改宗か洗脳しかありません。
洗脳するために相手の歴史を書き換えるのが対立構造の行きつく先ではないでしょうか。
このように対立構造で捉える思考法は旧約聖書の国だけでなくマルクス共産主義の国でも、同様だと思います。
マルクスの祖父はユダヤ教のラビであったそうです。
マルクス共産主義の三原則は史的唯物論、剰余価値論、共産社会主義です。
三つめの共産社会主義の原則のうちの一つが、闘争によって政権を奪取するということです。
マルクスは、資本家と労働者の対立構造でものごとを捉えているので、行きつくところは闘争に至るのです。
マルクスの思想の原点はヘーゲルの弁証法にあります。
ヘーゲルの弁証法の三原則は、対立物の統一、量と質の転化運動、否定の否定ですが、その根本にあるのが対立物の統一です。つまり、対立して、やがて、新しいものにアウフヘーベン(止揚)するということです。このような思考の結果、対立闘争することで、よりよきものが生まれると考える傾向になります。
しかし、近代科学の考え方は、仮説に対する反証です。近代科学は「正・反・合」ではなく、「仮・反・仮」なのです。
この場合、対立構造にはならないのです。
ヘーゲルの弁証法は、対立物は戦うという考え方ですが、真実は、相反するものが同時に存在することで世の中が安定しているのです。
ものを燃やす酸素と、ものを燃やさない窒素と、相反する物が同時に存在するから世の中が安定しているのです。
さらに言うと、ものが安定するためには、三極の支点がある必要があります。二つの視点では不安定です。
ジョセフ・ナイの『国際紛争』において、多極構造にあった世界が二極化したときに第一次世界大戦も第二次世界大戦も起こっていると分析されています。
このように対立構造が紛争を生んでいることは歴史が証明していると言ってよいと思うのです。
その点、日本の古事記を読んでも、ホロコーストのような話しは出て来ません。
戦う決意はあっても相手を徹底的に虐殺するような歴史は、我々にはないのです。
教育勅語に、『わが臣民よく忠によく孝に』という言葉があります。この『臣民』という言葉は儒教にはないのです。儒教では『臣』と『民』とを並立させることは絶対にないのです。
我が国は、天皇を頂点に、統治者である『臣』と被統治者である『民』を並列に置くことで、対立構造を回避している国でであると言えるでしょう。
すなわち、天皇を置くことで対立構造を避けている、素晴らしい知恵を持った国と言ってよいのです。
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公益財団法人アパ日本再興財団懸賞論文 西鋭夫 美学の國を壊した明治維新
公益財団法人アパ日本再興財団懸賞論文 西鋭夫 美学の國を壊した明治維新
作成:2016年12月17日(土)
公益財団法人アパ日本再興財団が主催する真の近現代史観最優秀論文に西鋭夫先生の美学の國を壊した明治維新が選ばれました。
まず、西先生に心からのお祝いを申し上げます。
高校の教科書レベルでは、明治維新の前には、フランスが支援していた幕府、イギリスが支援していた薩長、大政奉還派の三つ巴であったところ、慶喜が大政奉還を受け入れたためフランスと幕府が大勢を占めたところで、薩長が江戸で放火などのテロを繰り返し我が国を混乱に陥れ、鳥羽伏見の戦いで、イギリスが支援する薩長の勝利で終わったことになっています。
ところが、西論文では、当初からイギリスとフランスが共謀して明治維新を起こしたと考えています。
確かに、坂本龍馬の巨額な活動資金を出せたのは、イギリスしかなかったでしょう。
維新の志士たちの背後にはイギリスがいたことは教科書にも示唆されています。
しかし、鳥羽伏見の戦いがわずか数日で、実質的には1日で終結したのは、大量虐殺を避けようとする意図があったからであり、これは我が国のアイデンティティーが形成されていた証左であり、アヘンで内政を弱体たされた隣国との違いであったと思うのです。
歴史の多くは勝者が書き換えます。
したがって、史実を掘り起こし真実を検証する作業を怠ってはなりません。
今回の西論文は、坂本龍馬を初めとする勤王の志士たちに資金提供をしていたのは誰かという視点で真実を検証しようとした姿勢は素晴らしいと思います。
しかし、その後大きな内乱により国家が分断されなかったのは、天皇を上に頂くことで、対立構造を回避した我が国の先人の知恵のお陰であるという、先人への感謝の視点に欠けていたことは残念に思います。

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健康経営のためには健康の定義を変える
健康経営のためには健康の定義を変える
作成:2016年12月1日(木)
健康経営が現代のキーワードのひとつになっています。
健康経営とは、従業員の健康を増進して、企業の生産性を高める経営といっていいでしょう。
ここで、従業員の健康とは何か、定義をし直す必要があると思います。
従来から、健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが
満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)
私は、健康とは、このように消極的に定義されるべきものではなく、健康とは、自分の役割、責務を果たすために必要なエネルギーを発揮できる状態であると積極的に定義するべきだと思うのです。
このように健康を再定義したときに、健康経営の意味が明確になってくると思うのです。

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日経ビジネス2016.11.14「各国で民泊に規制の動き」
日経ビジネス2016.11.14「各国で民泊に規制の動き」
作成:2016年12月1日(木)
民泊をウェブで仲介するAirB&Bは、非上場企業ですが、もし株式公開すると3兆円を超える時価総額になると予想されます。
この民泊はニューヨーク州の住宅需給をひっ迫させているとして、規制が強化され罰則規定も設けられました。
ドイツのベルリン市のように欧州の一部でも、民泊に対する規制が強化されています。
スペインのバルセロナ市アダ・コラウ市長は「民泊を規制する」を公約に掲げて当選しました。
確かに、民泊は自宅の空いている部屋がビジネスに利用されるので、GDPが増えるとして歓迎するむきがあります。
一方で、規制を望む側は、宿泊者が騒がしい、ホテル業界等既存の事業を圧迫するなどそのマイナス面を訴えます。
ここで、おとしてはいけない視点は、当該国家において、外国人による不動産取得が規制されているかどうかです。
この論点を落として民泊を論じてはいけないと思うのです。

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週刊東洋経済2016.11.12 沖電気工業OKI 執念の工場再生
週刊東洋経済2016.11.12 沖電気工業OKI 執念の工場再生
作成:2016年11月6日(日)
東洋経済では、沖電気の清水光一郎氏が、沖電気を本庄工場を再生させるためにEMSで成功した事例が紹介されています。
沖電機は、沖牙太郎氏が電機製造・販売を業とする明工舎を創立した1881年(明治14年)1月から始まります。
同年、第2回内国勧業博覧会に「顕微音機」を出品し、両陛下の目に留まり、有功二等賞を授与され、明工舎の名前は一挙に世に知られました。
しかし、同年の松方デフレで危機を迎えます。
牙太郎氏が奔走し、1882年に軍用プリンタと軍用電池を陸軍に納入することができ危機を乗り越えます。
ルーターの出現によって危機を迎えた沖電気の本庄工場に、清水氏が2001年、トップに着任します。
清水氏は、独自の開発装置で多品種少量生産を可能にし、EMS(電子機器の受託生産)で再生を成し遂げます。
当時よくコンサルタントがいっていた「多品種少量生産」に出たから成功したのではないと思います。
実際、多品種少量生産に取り組んで失敗した事例は数多くあります。
戦略の選択の問題ではなく、「やり抜く力」がEMSを成功させたのだと考えられます。
つまり、コンサルタントは「戦略」の大切さを訴えます。
しかし、現実の経営では、戦略もさることながら、「やり抜く力」が成否を分けていることが多いのです。
OKIの事例は、このことを示してくれていると思います。

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