コンサルタント弁護士・籔本恭明(やぶもとやすあき)
経営の視点
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プラトン美学とアリストテレス芸術哲学の止揚に視る日本的経営の可能性
プラトン美学とアリストテレス芸術哲学の止揚に視る日本的経営の可能性
作成:2017年9月25日(月)
プラトンによると、現世の現実は、イデアの世界の影に過ぎません。
このように考えると、芸術は、神、真理、イデアの世界から遠いものと位置付けられます。
もちろん、プラトンが「国家」で述べた詩人追放論は、当時のギリシャの人々が日常の指針にしたホメロスを、そのような扱いをするべきではないという注意を喚起する意図があったという説があることも存じております。
しかし、この説を踏まえても、プラントの考え方によれば、芸術は、神やイデアから遠い存在ということになります。

一方で、アリストテレスはイデアの存在を否定し、芸術は、現実の世界を根拠にして、世界に内在する本質を模倣的再現したものであると考えます。

このように、プラトンにおける芸術は神から霊感によって表現されるものであり、アリストテレスにおける芸術は、現実世界に根差したものであると考えます。
常識として、両者は全く異なるもの、対立するものであると捉えられています。

しかし、ここで一つの仮説を設定してみましょう。
もし、この世の中は、神の意図、意趣がなんらかのかたちで表出したものであり、霊感、現実、真理の三つは、三位にして一体のものであると考えるとしましょう。
そして、芸術は、神から霊感によって表出されたものであると仮説を置きます。
また、現実もまた神の意趣が表出されたものと仮説を置きます。
つまり、霊感と現実と真理の三者は、三位一体となると仮説を設定してみましょう。

この仮説は突拍子もないものではありません。
我が国において、森羅万象すべての神が宿ると考えられているのですから、現実は真理の表現であると考えることは我々の思考に馴染むものです。
また、とりわけ佛教芸術において、インスピレーションによって「自分の手で木から仏さまを掘り出す」と表現されます。
プラトンとアリストテレスとは、霊感と現実と二者対立で捉えられていますが、実は、我が国の森羅万象すべてに神が宿るという思想においては、両者は矛盾していないと考えることができると考えるのです。
我が国の素朴な芸術感覚を前提にすれば、プラトンとアリストテレスの対立は止揚されるのです。
いいえ、止揚という言葉自体が二者対立を前提としていますが、我が国においては、維摩経に説く「二にして一」という二者対立を解消する思考は、一般的に「日本的問題解決の思考」の一部になっているのではないでしょうか。

日本的経営という定義は、一般化しているわけではないことを断った上で、労使対立より労使協調路線に親和性がある我が国の経営において、和を以て貴しとする文化を学び直すことによって、二者対立を超克する思考は、日常のマネジメントに有益なヒントが見つかると考えるのです。

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