コンサルタント弁護士・籔本恭明(やぶもとやすあき)
経営の視点
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諸橋茂一著「日本が世界の植民地を開放した」(高木書房)
諸橋茂一著「日本が世界の植民地を開放した」(高木書房)
作成:2017年1月25日(水)|更新:2017年2月13日(月)
昨今、中国政府がアパグループCEO元谷氏が「南京大虐殺は虚構である」という趣旨の文章を書いた本を、元谷氏らが経営するホテルに置いていることに関して批判している。
本来、外国政府から我が国の国民の言論活動に対する妨害があれば、これに抗議することが政府の責務であると考える。
蓋し、国家は国民の幸福追求権を確保する責務があるからである。
また、外国政府から我が国の国民の言論活動に妨害があったのであれば、我が国のメディアは総力を挙げて、外国政府に抗議するべきであるが、現時点ではそのような様子は見られない。
これを見ても、我が国のメディアは、国民の人権を確保する意欲に欠ける。我が国のメディアには、言論の自由を語る資格はないと言ってよい。
さて、今回、問題になった南京大虐殺についてであるが、諸橋茂一氏がその著書「日本が世界の植民地を開放した」の中に、南京大虐殺に関する記述がある。
同著61頁から80頁にかけて、南京大虐殺が虚偽である証拠が64個列挙されている。
今回のアパグループ代表に対する言論弾圧事件を契機に、南京大虐殺が虚構なのか否か、我が国で広く議論が展開されることを期待して、極一部だけ引用する。
(「南京大虐殺」が「真っ赤な嘘である」証拠の数々)
1.まず、「『南京大虐殺なること』に関する『犠牲者名簿なるもの』は唯の一人分も無い。」
(上海大学歴史学部・朱学勤教授による。平成19年12月20日付け産経新聞)。この1点だけで捉えても「南京大虐殺なること」が如何に荒唐無稽な作り話であるかは既に立証された様なものである。(仮に、「南京大虐殺」なることが真実であるならば、「30万人」という数字の何割かの「犠牲者名簿」が存在しないはずがない。)
2.「南京大虐殺」の犠牲者は、「30万人」ということになっているが、日本軍が南京を制圧した昭和12年12月13日当時、南京市内には、約20万人の民間人しかいなかったという記録があり、併せて、約1か月後、昭和13年1月14日の時点では、人口が約5万人以上増えて、約25万人~30万人になっていたという「南京安全区国際委員会記録」が残っている(田中正明著「南京事件の総括」29頁)。
3.日本軍が南京を占領する約1か月前、昭和12年11月より翌年の9月迄、蒋介石率いる国民党は、ほぼ毎日の様に、欧米のマスコミ関係者を集めて、記者会見を開き、日本軍に対するイメージダウンの目的で、日本軍の不法行為等について嘘八百の発表、宣伝工作を続けていた。そして、その回数は延べ300回に及んだという。処が、当時、国民党は「南京大虐殺」などということを一度も言ったことが無かったという。何故か?それは、その様な事は全く起きていなかったから言わなかっただけである。仮に、当時、南京で「大虐殺」が起きていたならば、其の事を其の記者会見の場で取り上げないはずがなかったであろう。
4.昭和13年当時、中華民国の顧維均代表が国連(国際連盟)で、「南京で日本軍が約2万人の民間人を虐殺し、数千の(婦女)暴行があった。」と演説した(日本非難決議を出そうとした)処、(何を馬鹿な事をいっているのだと)誰も相手にしなかった(「南京事件の総括」91頁~93頁)。
5.日本軍が占領した南京には、日本のマスコミ関係者だけで約120人、欧米も入れると約200人ものマスコミ関係者が入って取材活動を続けていた。処が、当時、国民党と繋がっていた極一部の、後述する者二名を除き、南京で大虐殺が有ったという報道をしたものは誰もいなかった。もしも当時、南京で大虐殺が行われていたならば、多くの南京在住のマスコミ関係者が、其の事を大々的に報道しないはずがなかったであろう。日本側関係者の中には、マスコミ関係者以外に、大宅壮一や西条八十、草野心平、杉山平助、木村毅、石川達三、林芙美子等々、多くの日本人ジャーナリストや作家が陥落直後の南京を訪れて見聞記を書いていた。しかし、それらの人々の(中の)誰一人として、「南京大虐殺見聞記」を書いたとか、或いは、「大虐殺に関する証言」をしたという事実はない。
 万が一に、「大虐殺」なる事が有ったならば、それらの人達の中で、唯の一人もそのことに触れていないなどということはあり得ない(渡部昇一著「かくて昭和史は蘇る」287頁)(田中正明著「南京事件の総括」123頁)
6.当時の南京にはロイター、AP、UPIといった、世界の大通信社や新聞社の特派員達が多数駐在していた。「仮に南京大虐殺なる事が有ったならば、何故、当時の国際社会の中で(大きな)問題とならなかったのか」(「かくて昭和史は蘇る」288頁)
7.南京陥落後二か月間の事件を完璧に記載しているという、南京大学教授・スマイス著「南京安全地帯の記録」の中の「市民重大災害記録」によると、問題の最初の三日間の記録として、「13日は、婦女暴行と掠奪が3件、14日は殺人1件、婦女暴行4件、掠奪3件、15日は殺人4件、婦女暴行5件、掠奪5件である。」とある。しかし、誰が目撃したか明記されていない。南京陥落から三日間、市民殺害の明確な目撃は1件も無かったことになる(「新・地球日本史「南京大虐殺は存在せず」」)。
8.昭和13(1938)年7月、表向き「マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員」であったハロルド・ディンパーリ―が、「戦争とは何か―中国における日本軍の恐怖」をロンドンとニューヨークで出版した。その中の最初の4章は、南京の外国人が友人達に出したという「匿名」の手紙で構成され、「二日もすると、度重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行…」「完全な無政府状態が支配しており、さながらこの世の地獄だ」「4万人地殻の非武装の人間が…殺された」と書いた。処が、前項のスマイス並びにティンパーリ―共に、中国国民党中央宣伝部に雇われていた人間(ティンパーリーは同宣伝部顧問)であったことが明らかとなっている。しかも、スマイスとティンパーリーが書いている内容には非常に大きな乖離がある。双方共に全く信憑性は無い。しかも、ティンパーリーは当時、南京には居らず、上海に居たのである(「南京事件の総括」97頁)。
これらの証拠が縷々64個も出店を明確にして整理されている。
(半藤一利氏「昭和史」と偕行社「南京戦史」)
一方で、南京で虐殺があったことを肯定するような言論もある。
例えば、大ベストセラーになった半藤一利氏「昭和史1926-1945」(平凡社)198頁には、「そのなかで平成元年(1989)に旧日本陸軍の集まりである偕行社が『南京戦史』を出版し、そのなかで旧陸軍にとって不利になりかねない記録や手記も隠さず、中国側の公式記録『南京衛戍軍戦闘詳報』なども加え、ていねいに書きつらねて、次のような結論を出しました。」として、
『「通常の戦闘による中国軍将兵の戦死者(戦勝病死者を含む)約三万人」これは戦闘行為によるものゆえ問題にはなりません。
「中国軍将兵の生存者(渡江、釈放、収容、逃亡など)約三万人」これは無事に南京錠から逃げることができたわけですから、オミットできますね。そして、
「中国軍捕虜・便衣兵などへの撃滅、処断による死者約1万6千人。一般市民の死者約1万5千7百60人」
 ちなみにこの「撃滅、処断」とは、敗残兵に対する攻撃、市民にまぎれこんだ中国兵の掃討、さらには捕虜暴動の鎮圧などを指しています。これと市民の死者の数を合わせたものが、問題の数になるわけです。けれども『南京戦史』は、この人数のどれだけが戦闘行為による死が虐殺にあたるのか、というところまでは記していません。が、これらすべてがいわゆる不法な行為によって殺されたとすれば、3万人強がその数ということになりましょうか。」
とある程度の規模の虐殺があったかのような記載をしている。
しかし、一方で、半藤氏は、同著199頁で、「ただ、中国側が言うように三十万人を殺したというのは、東京裁判でもそう言われたのですが、ありえない話です。当時、南京の市民が疎開して三十万人もいなかったし、軍隊もそんなにいるはずはないのですから。」
ここで明確にしなければならないことは、半藤氏ですら、中国側がいう南京大虐殺は虚偽であることを明言していることである。
また、半藤氏は、同著199頁で、「昭和13年1月、作家の石川達三が中央公論から南京に特派されて行っています。前年12月に起きた南京事件は終わっているのですが、それでも相当数の虐殺が行われているのを彼は目撃しています。それを小説「生きてゐる兵隊』として発表すると直ちに発禁となり、執行猶予付きですが懲役刑を言い渡された。それを読んでも、南京で日本軍がかなりひどいことをやっていることがわかります。」とあたかも南京大虐殺があったかのような書きぶりをしている。
しかし、田中正明氏の「南京事件の総括」112頁には、石川達三は、「私が南京に入ったのは入場式から二週間後です。・・・大殺戮の痕跡は一ぺんも見ておりません。」とあり、半藤氏の推測は当を得ていないと言える。
また、偕行社の「南京戦史」において「中国軍捕虜・便衣兵などへの撃滅、処断による死者約1万6千人。」と認定されていること自体に疑問を感じる。
(偕行社「南京戦史」の中国兵捕虜について)
戦闘員が降伏しただけでは捕虜ではない。
戦闘員が降伏して、かつ、敵軍の司令官が捕虜として受け入れる合意ができてはじめて捕虜となるのである。
双方の合意が成立していない場合には、戦闘員を戦争で殺しても合法である。
また、合意が成立しているか明確でない場合には、戦闘員を戦争で殺すことは国際法上違法とは言えない。
そもそも南京が陥落した時点で、双方の合意が成立した捕虜がどれほどいたのか疑問である。
蓋し、蒋介石が後を任せた軍司令官・唐生智は、南京が陥落する前に逃亡していたのであって、捕虜に関する合意が成立していたはずはないのである。
唐生智は、南京陥落前に、自分だけ逃亡したのであるから、そもそもシナ軍は正式に降伏することはできなかったはずであるし、捕虜に関する合意を締結できたはずはない。
したがって、偕行社の「南京戦史」の捕虜に関する記述をにわかに信じることはできないし、これを引用した半藤氏の推論も信じることは困難である。
すなわち、軍司令官が逃亡したので、南京陥落時には捕虜はいなかったと考えることが論理的だと言える。
(偕行社「南京戦史」一般市民の死者について)
南京が陥落しそうになったとき、南京市民は南京錠ないの安全地区に集められた。
南京陥落時に、大虐殺が行われた記録は存在しない。
もし、安全地区内で大虐殺があったなら、死体を処理しなければ、到底耐えることができない臭いがしたはずである。
しかし、そのような記録はない。
このように考えると、南京市民に対する虐殺はなかったと言わざるを得ないのではないか。
いずれにしても、今回のアパホテル代表に対する言論弾圧事件を契機にして、南京事件が本当にあったのかについて議論が盛り上がることを切に望む。


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