コンサルタント弁護士・籔本恭明(やぶもとやすあき)
経営の視点
経営の視点
平成28年12月15日勝兵塾での講演要旨
平成28年12月15日勝兵塾での講演要旨
作成:2017年1月22日(日)
現行憲法について、少なくとも、第九条、家族の規定、義務の規定の3つの条項の改正が必要だと考えます。
第1に、憲法第9条改正する必要があります。
自分の国を守ると言ったら右翼と呼ばれる状況はとんでもないことです。
もちろん、社会的コストの問題もありますので集団的安全保障によって、自国一国で防衛するより安価に防衛することは考える必要はあります。
しかし、我が国では集団的安全保障に批判する人々もいるのです。
例えば、中国の戦国七雄の時代、強大になった秦に対抗するため楚・斉・燕・趙・魏・韓の六国は、集団的に安全保障を確保するため合従策を講じます。
これに対して、秦は、周辺の国々と個別に和平を結ぶ連衡策によって、六国の合従策を分断していき、終に、遠交近攻でそれぞれの国を滅ぼしてしまいました。
また、先の大戦では、ヒトラーは、平和主義者であった英国首相のチェンバレンがズデーデンの割譲を認めたことから「戦う気がない」と見抜き、その結果、ヒトラーの侵攻に繋がりました。まさしく、平和主義者が戦争を引き起こしたと言えるのです。
このように、和平の裏には侵略の意図があったり、口先だけの平和主義が戦争をもたらすことは歴史が証明しているのです。
第2に、憲法に家族の規定を明記する必要があります。
社会の構成要素には、国家、地方自治体、法人、家族などがあります。
これら社会を構成する要素のうち、再生産(リプロダクション)できるのは家族だけです。
家族が滅びると、その民族は滅びます。
家族の形態は、その民族によって異なります。
いわば、国家のかたちは家族のかたちによって規定されます。
憲法が国家のかたちを規定するものでありますので、憲法が理想とする家族のかたちを示すことは当然のことだと関上げます。
そこで、家族を社会の最小の構成単位であることを明確に規定する必要があると思うのです。
第3に、国民の義務の規定を明記する必要があります。
権利の裏には義務があります。権利と義務は紙の表と裏の関係にあります。憲法が国民の権利を規定する以上、国民の義務について規定するのは自然なことだと思うのです。
しかし、保守の中にも義務の規定に反対する人々がいるのです。
それは、近代の憲法観では、絶対王政から国民の自由を守るために、国家権力を縛るのが憲法の役割だと考えているので、憲法には国民の義務を規定しなくてよいと考えている人が少なくないのです。
しかし、我が国には絶対王政はなかったのです。我が国の憲法は、他国の歴史を借用してきて作られているのですが、まして、歴史の借用を押し付けられていると言えるのです。
我が国の憲法は、天皇による国民の人権侵害を防ぐために制定したものではありません。
近代の憲法観では、統治者と被統治者の対立構造で歴史を捉え、統治者は悪で被統治者は善、と考えています。
このような対立構造で捉える憲法観がある限り、本当の意味での我が国の再生は難しいのではないでしょうか。
もっと掘り下げると、東京裁判史観を含む戦後の歴史観は、世の中を対立構造で捉えているのではないかと思うのです
旧約聖書を読むと戦争の話しが沢山出てきます。旧約聖書の「ヨシュア記」などを読むと、戦いによって民族が形成されてきたと認識するでしょう。対立の結果としての殺戮の歴史といってよいでしょう。このような対立構造で考えることが子供のころから頭に染みついているのではないでしょうか。
一神教の世界の内部での対立構造の行きつく先は、ホロコーストか改宗か洗脳しかありません。
洗脳するために相手の歴史を書き換えるのが対立構造の行きつく先ではないでしょうか。
このように対立構造で捉える思考法は旧約聖書の国だけでなくマルクス共産主義の国でも、同様だと思います。
マルクスの祖父はユダヤ教のラビであったそうです。
マルクス共産主義の三原則は史的唯物論、剰余価値論、共産社会主義です。
三つめの共産社会主義の原則のうちの一つが、闘争によって政権を奪取するということです。
マルクスは、資本家と労働者の対立構造でものごとを捉えているので、行きつくところは闘争に至るのです。
マルクスの思想の原点はヘーゲルの弁証法にあります。
ヘーゲルの弁証法の三原則は、対立物の統一、量と質の転化運動、否定の否定ですが、その根本にあるのが対立物の統一です。つまり、対立して、やがて、新しいものにアウフヘーベン(止揚)するということです。このような思考の結果、対立闘争することで、よりよきものが生まれると考える傾向になります。
しかし、近代科学の考え方は、仮説に対する反証です。近代科学は「正・反・合」ではなく、「仮・反・仮」なのです。
この場合、対立構造にはならないのです。
ヘーゲルの弁証法は、対立物は戦うという考え方ですが、真実は、相反するものが同時に存在することで世の中が安定しているのです。
ものを燃やす酸素と、ものを燃やさない窒素と、相反する物が同時に存在するから世の中が安定しているのです。
さらに言うと、ものが安定するためには、三極の支点がある必要があります。二つの視点では不安定です。
ジョセフ・ナイの『国際紛争』において、多極構造にあった世界が二極化したときに第一次世界大戦も第二次世界大戦も起こっていると分析されています。
このように対立構造が紛争を生んでいることは歴史が証明していると言ってよいと思うのです。
その点、日本の古事記を読んでも、ホロコーストのような話しは出て来ません。
戦う決意はあっても相手を徹底的に虐殺するような歴史は、我々にはないのです。
教育勅語に、『わが臣民よく忠によく孝に』という言葉があります。この『臣民』という言葉は儒教にはないのです。儒教では『臣』と『民』とを並立させることは絶対にないのです。
我が国は、天皇を頂点に、統治者である『臣』と被統治者である『民』を並列に置くことで、対立構造を回避している国でであると言えるでしょう。
すなわち、天皇を置くことで対立構造を避けている、素晴らしい知恵を持った国と言ってよいのです。


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