コンサルタント弁護士・籔本恭明(やぶもとやすあき)
経営の視点
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事業承継(その39)後継者育成の困難
事業承継(その39)後継者育成の困難
作成:2016年5月25日(水)
事業承継(その39)後継者育成の困難
ファミリー企業の課題として、後継者育成の問題があります。
唐の太宗は、側近に「今、国家にとって最も急いで必要なものは何か。」と尋ねました。
すると臣下の褚遂良が「万代まだ続く方を作って、子孫に残すことです。」と答えました。
太宗は、「よい後継者がいなければ、国家が滅びる。それぞれの後継候補者に有能な補佐を付けてくれ。補佐は長く使えると情が移るので、4年を限度とする。」と言いいました。
よい後継者の育成と選抜が企業存続の条件です。
しかし、後継者育成に注意を払った太宗でも、事業承継はうまくいきませんでした。
太宗の長男の承乾は、礼節を知らずわがままでした。
次男の泰は策謀好きでした。
悩んだ太宗は、三男の治を太子に立てましたが、後に即位した治は大変おとなしく、結果、則天武后に実権を奪われました。
唐の名君・太宗ですら後継者の育成と承継はできませんでした。
後継者の育成は困難なのです。
 創業者が元気な間に、承継候補者に様々な経験、修羅場をくぐらせて、併行して、人間性を高めるとともに、次に述べる適切な補佐役を選任することでしょう。

補佐役の任命
よい後継者を育成できるかどうかは、補佐によるところが大きいものです。
貞観16年、名君・太宗は、侍臣に国家において最も急を要する課題を尋ねたところ、褚遂良が承継者の問題を挙げました。
太宗は、「賢徳を捜訪して、もって儲宮を輔け、正士を求めよ。」と後継者の補佐役を探し出すように命じました。補佐役の良否が、承継者の育成の成否を決定づけるのです。
 ところが、この補佐、師傅(しふ)の任命は難しいものです。
 太宗は、「太子の師保は、昔から選抜がむずかしい。」と後継者の補佐役の専任の難しさを言っています。
 補佐役は、私心がない哲学者がよいのですが、承継候補者の足りないところを補い、承継候補者との相性が良いことが必要です。
 承継候補者に媚びるようでは補佐役は務まりませんが、相性が悪いと、承継候補者から切られてしまうからです。

胡亥の補佐役・趙高
 秦の始皇帝が病死すると、丞相の李斯と、宦官の趙高に擁立されて始皇帝の息子である胡亥が即位しました。
 胡亥は即位前後から趙高の勧めに従って兄の扶蘇を自殺に追い込み、兄弟を含む皇族や重臣を粛清しました。
 さらに始皇帝陵や万里の長城等の建築を推進し、人心の離反を招きました。
 胡亥は奢侈な生活を送り人心はさらに離れて行きました。
 このようなときに忠言してくれる部下がいました。李斯です。李斯は胡亥に諫言しました。しかし、趙高が胡亥に李斯のことで讒言し、これにより李斯は処刑されてしまいます。
 反乱が多発してようやく状況の悪化を知った胡亥は、趙高の責任を追及しようとしましたが、時すでに遅し。
 趙高がクーデターを起こし、胡亥を自害に追い込みます。
 胡亥は、補佐役の選任に失敗し、秦を滅亡させてしまったのです。

小泉産業
 1738年、小泉新助が「近江屋新助商店」を始めました。これが後の小泉産業です。
 1943年設立の小泉産業は、大阪市中央区にある家庭用家具、照明器具の製造業です。
 中興の祖と呼ばれた三代目の小泉重助は、息子の伊助を入社させる際、補佐役として彦根高等商業学校(後の滋賀大学)を首席で卒業した立沢四郎を迎えました。
 二人は同い年でしたが、伊助の初任給は社内規定通りの17円50銭、立沢は45円と補佐役の方が高給取りでした。
重助は、「差額は本代だ。」と従業員教育を立沢に託しました。(日本経済新聞社編「200年企業」より)

マッキンゼー・マフィア
 世に経営専門家はあまたいます。
 マッキンゼー・マフィアという言葉がありますが、社内に後継者候補が見つからない場合には、コンサルティング会社から経営専門家を連れてくることがあります。
 三枝匡氏は、ボストン・コンサルティング等を経てミスミのCEOに就きました。
 ファミリー企業において、ファミリーから後継者を選ぼうとしても、それほど候補者がいるとは限りません。
 家には育成機能を有しますが、ファミリー企業では、できる人間を選抜するのではなく、できる人間になるように育成するのが基本です。
 ファミリー企業後継者は、経営専門家を補佐役として経営を指南させることも選択肢です。

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