コンサルタント弁護士・籔本恭明(やぶもとやすあき)
経営の視点
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事業承継(その29)スリーサークル・モデルで分析する徳川幕府
事業承継(その29)スリーサークル・モデルで分析する徳川幕府
作成:2016年5月9日(月)
事業承継(その29) スリーサークル・モデルを使った分析
 ここで、260年の長きに亘って続いた徳川政権が、長期政権維持の構造に関してスリーサークルモデルを使って分析してみましょう。
 徳川幕府が取った種々の政策の中から、長期政権維持に寄与した政策を、「所有」政策、「経営」政策、「家族」政策のそれぞれに分類してみましょう。
 とりわけ、徳川幕府の「経営」政策については、さらに3C分析を用いて、幕府内部に関する政策(Company)、競合に関する政策(Competitor)、顧客に関する政策(Customer)に分解していきます。
 徳川幕府にとっての競合は、他の大名のみならず天皇が含まれると考えます。
(Ⅰ)徳川幕府長期政権維持に関するスリーサークルモデル分析
1.徳川幕府の所有政策
 家康は徳川家の財産を確保するために、全国の金山・銀山を直轄領としました。室町幕府の時代には、大名領内で新たに金山・銀山が見つかれば、そこから採れる金・銀は大名のものとなっていたものを、徳川直轄領として、財政的基盤を強固なものにしたのです。
 また徳川幕府は貨幣発行権を独占しました。幕府の財政が危機に瀕したとき、貨幣改鋳によって金・銀の含有量が少ない通貨を造り直して通貨の流通量を増やしたこともありました。
2.徳川幕府の経営政策
 徳川幕府の経営政策について、幕府内部に関する政策(company)、競合相手に関する政策(competitor)、顧客(市民・浪人等)に関する政策(customer)に分解してみましょう。
(1)幕府内部に関する政策(company)
 家康は、将軍を息子の秀忠に譲った後も、大御所として独裁的な権力を振いました。しかし、やがて将軍は、5人で構成される老中会議で決まったことを最終的に裁可するだけの存在になります。すなわち、将軍自身に必ずしも経営能力がなくとも老中が「経営」をやってくれるシステムをつくりました。この結果、ファミリーのリレーを確立して、所有を経営の分離を行ったことになります。
(2)競合相手に関する政策(competitor)
 徳川幕府にとっての競合相手とは、まず第一に、徳川家以外の大名は、譜代も外様も競合相手といえます。
 第二に、宗教勢力が競合相手と言えます。今とは違って一向一揆の持つ破壊力は大きなものでした。一向一揆は加賀領主を破ったのです。家康自身が若かりしときに一向一揆に首を取られかけたことがあったので、宗教勢力の怖さは十分理解していたのです。
 第三に、朝廷も競合相手と言えます。
 第一の競合相手である大名に対して、大名統制システム確立に成功しました。1615年に一国一城令を発布し、武家諸法度を提示したなどの政策です。
 第二の宗教勢力に対して、宗教勢力統制システム確立に成功しました。侵略を伴っていた当時のキリスト教布教に対して鎖国によって国家を守り、一向一揆の本願寺を東西に分断して勢力を分散させ、檀家制度によって佛教を骨抜きにして、官僚組織の統制下におきました。
 加えて第三の天皇に対しては、天皇家牽制システム確立に成功しました。1615年、禁中並びに公家諸法度を定め、武家諸法度で公家と大名家との通婚を禁止し、関白の権能を強化して天皇の権能を相対的に低くしました。
(3)顧客(市民・浪人等)に関する政策(customer)
 まず、徳川幕府は、主君に対して絶対の忠誠を説く朱子学を奨励しました。
 次に、戦争がなくなっても失業者がでないように、武士を官僚として職を与えました。
 さらに、改易(大名とりつぶし)によって大量に失業者が発生することを防ぐために、「末期養子」の制度によって大名取りつぶしを回避させました。
3.徳川幕府の家族政策
 事業承継の歴史的な天才である徳川家康は血統を絶やさないように、尾張、紀伊、水戸の御三家を作りました。三代で途絶えた源家を記述する「吾妻鏡」を愛読していた家康は、徳川家を絶やさないように、天皇家の分家である宮家をモデルとして御三家を作ったのです。
 家康は、晩年に産ませた義直、頼宜、頼房を、尾張家、紀伊家、水戸家として、血統の代替を準備したのです。
(Ⅱ)徳川幕府滅亡に関するスリーサークルモデル分析
 上記(Ⅰ)のように徳川幕府は長期政権を維持するために種々の政策を打ち出し成功しています。しかし、盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)でしょうか、徳川幕府は1868年に薩摩藩・長州藩・土佐藩に倒され滅亡を迎えることになります。そこで、徳川幕府滅亡についても、なぜ滅亡したのか、スリーサークルモデルを使って分析してみましょう。
1.所有に関する徳川幕府滅亡の要因
 競合大名である薩摩藩・長州藩などが財政改革に成功して、幕府の所有財産の相対的優位が低下してきました。また、薩長以外の藩においても、貨幣経済が発展し他の大名や商人の力が大きくなり相対的に幕府の財政力は低下していったのです。
 この現象は、ヨーロッパでも共通しています。
 ローマ帝国が解体し、群雄割拠の状態になりましたが、1096年に始める十字軍の遠征で、イスラム世界から技術や商品がヨーロッパに持ち込まれて、その結果、貨幣経済が発達します。そうすると、農作物の取れ高に依存する領主が相対的に没落しました。
 貨幣経済が中世を解体したと言っていいでしょう。
 ここで、徳川幕府の話しに戻りますが、重農政策を基本にしてきたため、18世紀に多発した飢饉によって幕府財政がさらに苦しくなってきました。
2.経営に関する徳川幕府滅亡の要因
(1)幕府内部に関する滅亡要因
 田沼意次は重農政策から重商政策に転換しようとしましたが、反対勢力によって失敗し、重農政策から抜け出すことができませんでした。
 徳川家が自らの正統性を根拠づけるために積極的に推奨してきた陽明学は、掘り下げていくうちに日本の中心は天皇であるとの考えに至りました。徳川家の正統性理論であったはずが尊王論を根拠づける皮肉な結果となったのです。
(2)競合に関する滅亡要因
 1825年に外国船打ち払い令を出し鎖国政策を維持し外国からの脅威を遮断する努力はしていましたが、清がアヘン戦争で敗れるともはや鎖国政策を維持できなくなり薪水給付令を出すに至りました。1853年にペリーが浦賀に上陸し、1854年には開国を余儀なくされました。
 坂本龍馬、中岡信太郎らにより薩長同盟が結ばれるなど、大名同士がアライアンスによって力を増強し、幕府は第二次長州征伐に失敗するに至ります。
 上記尊王論によって天皇が精神的統合の中心的立場になっていき、天皇を中心に徳川幕府の競合するアライアンス形成が加速されたのです。
(3)顧客(市民・武士)に関する滅亡要因
 貨幣経済が発展したにもかかわらず、重農政策から重商政策へ転換することができませんでした。17世紀末から貨幣に含まれる金の量を減らして通貨量を増やし、これで財政を立て直そうとしましたが、かえって、貨幣の質を低下させたためにインフレーションを招き失敗しました。
 このことが市民から不評を買うことになったのです。
 また、インフレーションのコントロールができなかったため財政に苦しみ、武士が経済的に困窮し、武士からも不評を買うことになりました。
3.家族に関する徳川幕府滅亡の要因
 1853年のペリー上陸の混乱の最中に将軍・家慶が病死しました。その跡を継いだ第13代将軍徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍世継問題で幕府の内部が動揺しました。
 これまでずっと、御三家のうち水戸家からは将軍を出さないルールのもとで、血統を確保していました。水戸家が将軍につかないルールを敷いたのは、もし、将軍家と天皇家が対立した際には、水戸家が天皇家に加担することによって徳川家の継続を図ろうとした家康の戦略であったと言われています。
 しかし、慶喜は1847年に一橋家の世継となったからということで、本来は慶喜は水戸藩に生まれたにも関わらず、将軍職に就きました。これにより、水戸、尾張、紀伊の三家による血統の確保のルールが崩れました。慶喜将軍就任によって、徳川と天皇と対立した際に、水戸藩が天皇側について、血統承継のリスクヘッジをとるという選択肢がなくなったのです。
 
 確かに、徳川幕府とファミリー企業と同列に論じることはできないかもしれません。しかし、所有と経営のみならず、家族の要素を入れることによって、釈然としなかった問題点が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
 このようにスリーサークルモデルを使って徳川幕府を分析すると、ファミリービジネスの分析にスリーサークルモデルが有効な整理ツールであることがわかると思います。

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